4キリストは、私たちの父なる神の御心に従い、この今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。 5神に栄光が世々限りなくありますように。アメン。 6キリストの恵みによってあなたがたを召してくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に移行していることに、私は驚いています。 7ほかの福音といっても、もう一つ福音があるわけではありません。あなたがたをかき乱し、キリストの福音を歪めようとする者たちがいるだけです。 8しかし、私たちであれ、天からの御使いであれ、私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを宣べ伝えるなら、呪われるべきです。 9私たちが前に言ったように、今また私は言います。もしだれかが、あなたがたの受け入れた福音に反することを宣べ伝えているなら、呪われるべきです。 10今、私は人に媚びているのでしょうか。いや、神にでしょう。あるいは、人を喜ばせようとしているのでしょうか。もし今なお人を喜ばせようとしているなら、私はキリストの僕ではありません。
ガラテヤ人への手紙 1章4–10節(新改訳2017)悲しみの幕を開いて訪れた、ただ一つの愛
近代哲学の頂点に立ったイマヌエル・カントは、その著書『純粋理性批判』において、 人間の限られた理性では決して絶対者の領域に到達することはできないと論じました。 人は自分の力だけで神を認識し、見いだすことはできないのです。 この厳然たる限界に向き合うとき、人の前には深い絶望の闇が広がります。
しかし、人が神のもとへ行くことができないからこそ、絶対者であられる神ご自身が、 人類の歴史の中へ歩み入ってくださいました。聖書はこの出来事を「啓示」と呼びます。 それは、閉ざされていた幕が開かれるように、神が独り子を通してご自身を完全に 現してくださった出来事です。日本オリベットアッセンブリー天城センターで語られた このメッセージは、私たちが自分の知恵や律法的な行いによって救いに至るのではなく、 神が開いてくださったただ一筋の光によってのみ、まことのいのちを得ることができることを、 改めて深く思い起こさせます。
人間は本質的に、創造主に全面的により頼む存在として造られました。堕落する以前から、 人間は、太陽に向かって咲くひまわりのように神を慕い求め、その御前に生きるよう、 存在そのものが造られていたのです。罪を犯したときに良心の責めを覚え、 恐れを抱くことも、人間の理性が因果の法則を通して宇宙の第一原因である創造主の 存在を推し量ることも、すべては人の内に刻まれた神の御手の跡なのです。
仏教の開祖シッダールタもまた、一匹の切り裂かれたミミズの死を目の当たりにし、 深い苦悩と思索を重ねました。しかし、人類の根本的な救いへの答えにたどり着くことは できませんでした。世の学問や宗教は、絶対者の存在をかすかに推し量ることはできても、 その方がどれほど私たちを愛しておられるのかを明らかにすることはできません。 崇高なる絶対者が、何の条件もなく、まず人を愛してくださったという、 この計り知れない福音の奥義は、ただ聖書によってのみ私たちに示された恵みの 知らせなのです。
ガラテヤへの警告――福音の恵みを曇らせる人間の変質
ガラテヤ書は、初代教会で起こった救いをめぐる最も本質的で激しい神学的論争に対して、 使徒パウロが明確な答えを示した書簡です。当時の教会には、イエス・キリストの 十字架だけでは救いには十分ではなく、割礼を受け、律法を守ってこそ完全な救いに 至ることができると教える律法主義的な思想が入り込んでいました。それは、 神の恵みだけでは足りず、人間の努力や行いを付け加えて初めて救いは完成する という考え方にほかなりません。
使徒パウロは、このように福音の純粋さを損なう教えを「ほかの福音」と断じました。 そして、たとえ天からの御使いであっても、最初に宣べ伝えられたキリストの恵みとは 異なる福音を語るなら、その者はのろわれるべきであると、厳しく警告しています。
純粋なぶどう酒に水を混ぜれば、その本来の味わいは失われます。銀に不純物が 混じれば、その価値は損なわれます。それと同じように、人間の行いや功績が 十字架の贖いに取って代わろうとするとき、教会は福音のいのちを失って しまうのです。
私たちが告白すべき福音とは、キリストにおいて、すでにただ一度、完全に 成し遂げられた救いの御業です。救いは、人間の内にある可能性を開花させたり、 この世の知識を積み重ねたりすることによって完成されるものではありません。
ガラテヤ書の御言葉は、私たち一人ひとりに問いかけています。私たちは、 イエス・キリストの十字架のほかに、この世の誇りや人間的な功績を、 知らず知らずのうちに救いの条件として付け加えてはいないでしょうか。 今こそ御言葉の前に立ち、自らの信仰が福音に堅く立っているかを、 改めて吟味すべきです。
死のただ中に示された、完全な犠牲の証し
ガラテヤ書1章4節は、「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、 私たちの罪のためにご自身をお与えになりました」と宣言しています。
この短い一節には、救いと犠牲、そして計り知れない神の愛の物語が凝縮されています。 その内容は、ローマ書4章25節に記された「主イエスは、私たちの罪のために 引き渡され、私たちが義と認められるためによみがえられました」という 神学的真理とも深く響き合っています。
死の淵に立つ重い病人を救うためには、医師が自らのすべてを尽くすしかないように、 天の御国の御子であられるイエス・キリストがこの地に来られ、ご自身を十字架に ささげられた出来事は、あまりにも悲しく、それでいて限りなく聖なる出来事でした。
この十字架の福音は、頭で理解する知識にとどまるものではありません。 冷え切った私たちの心を溶かし、涙へと導く霊的な力を持っています。 人が罪を犯し、その恵みを裏切ったときでさえ、神は私たちを永遠の刑罰へと 見捨てられることはなさいませんでした。
牛やろばでさえ主人の飼い葉桶を知っているのに、人は自分を造ってくださった 創造主を知らず、その御前から離れてしまいました。それでも主は、限りない 愛の絆をもって、私たちを再びご自身のもとへ招いてくださったのです。
私たちが先に神を知り、神を愛したのではありません。神がまず私たちを知り、 私たちを愛してくださいました。そして、罪人のための宥めのささげ物として、 独り子を惜しみなくこの世へ遣わしてくださいました。キリストの死によって はっきりと示された父なる神の愛こそ、私たちが罪から解放され、永遠の希望を 抱いて生きることのできる、ただ一つの確かな根拠なのです。
魂を真に自由にする、ただ一つの御名を握りしめて
使徒ペテロも、復活された主イエス・キリストにお会いするまでは、恐れのあまり 主を否んでしまった弱い人間でした。しかし、十字架と復活の真理を自らの目で見、 その身をもって知った後、彼はアンナスの法廷にただ一人立ち、「この方以外には、 だれによっても救いはありません。天下のだれにも、私たちが救われるべき名は 与えられていないのです」と、少しも恐れることなく大胆に証ししたのです。
ペテロが叫んだ「No Other Name!(ほかの名はない)」という宣言を、パウロの 言葉で言い表すなら、それはガラテヤ書に記された「ほかの福音はない」という 宣言です。
天の下で、私たちの魂を罪と死の律法から解き放ち、まことの自由を与えることの できる御名は、ただイエス・キリストおひとりのほかにはありません。
主イエスは、疲れた者、重荷を負う者たちに向かって、「わたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい」と招いてくださいました。私たちは、自らを縛っていた 罪の重荷を十字架のもとに置き、今は主が与えてくださる負いやすいくびきと 軽い荷を、喜びをもって負い、真理のうちを歩む新しい人生へと招かれているのです。
神の戒めと訓練は、私たちを束縛するために与えられたものではありません。 まことのいのちの道を歩む私たちを守り、導くために備えられた、神の愛の 囲いなのです。
日本オリベットアッセンブリーは、すべての聖徒がこの福音という揺るぎない岩の 上に堅く立ち、どのような偽りの教えや世の風潮にも揺さぶられることなく、 ただイエス・キリストの御名だけを証しし続けることを願っています。
恵みによって始められたこの救いの道を歩む私たちは、今もなお、心を尽くして 初めの愛である主を慕い求めているでしょうか。